ただ思うままに淡々と感じたことなどを綴るブログ「時々僕」: 2015

2015/05/05

これからの道、そしてどう生きていくか

とりとめのない、僕のだらだらとした日記を書くにはここが向いている。

おそらく一番、誰に何を言われても構わない場所なんだろう。


モノカキで生きていきたいと宣言してどれくらい経ったのだろう。おそらく4,5年ほどだと思う。

いつでもそうだけど、本当になりたいと思うものには、様々な周りの支えがあってこそとはいえ、なれるものだ。

総理大臣のように日本で1人しかなれないものや、30を越えて医者になりたいというような、そもそも実現が難しいものを除けば、ほとんどのものが自分の意思と、それを支えてくれる周りを作ることで可能なんだと思う。


さて、そんな話は置いておくとして、今僕はようやくモノカキとして一歩進み始めたわけだが、今果たして自分がどんなモノカキになるべきなのか、日々思い悩んでいる。


実際にところ、なるようにしかならないし、なんだかんだやっていれば形成されていくものだ。


しかし、プロの世界というのは厳しいもので、モノカキとして一歩歩もうとしはじめたばかりのころに、よく諸先輩方や編集者の人から「何が得意なんですか?」と言った言葉を向けられた。


例えば「私は料理人です」という人がいた場合、僕も同じく「何系の料理人なんですか?」と聴くと思う。

おそらくその方が「料理全般です!」と答えれば、この人はまだプロじゃないなと思ってしまうだろう。

今の僕は全く同じことを言っているに違いない。


しかし、そんな中でも自分なりには徐々に進みたいと思う道や、人生をかけて書きたいと思うものがボンヤリとだが浮かんできている。


しかし、人間とは欲張りなものだ。ことさら僕に関しては欲張りが裸で歩いているような生き方をしてきた通り、1つに絞りたいとは中々思えない。


実際問題、プロでやっていくなら、色々やりたいと思ったところでまずは1つ何か得意分野を作ることで、その後の欲張りにも対応できる。

しかし、いわゆる器用貧乏なのだろう。これだ!というものがむしろなく、それなりにどれもそこそこ出来るのだと自分で勘違いしているところがある。


ここ最近悩んでいる中で、さらに自分を大きく悩ませている原因が、自分がやりたいと思う道が、ノンフィクションとフィクションの両極端であるということだ。

最近自分が行き着く先がもしかしたら、今となっては死語となりつつあるルポライターなのではないかと思うことがある。


決して順風満帆ではなく生きてきた中で、上場企業で働いていたこともあれば、裏社会に隣接するところにいたこともある。

その両者の世界にいたからこそ、見えてきた色々なものが僕の中には蓄積されている。

そうした経験から、つねに僕の中では色々な課題が浮かび、それを文章として社会へ届けたいと考えていることは多くある。


しかし、そうしたルポライターの道とは別に、幼少期から書いていた小説や詩などの世界にも大きなあこがれと、そして衝動がある。


現実を切り取ることで、伝えるものと、
非現実を描くことで、引き起こされるもの、
その両方が僕にとっては、背中合わせなようで同じなのだ。


しかし、ノンフィクションを書く人間が、フィクションを描くようでは、そのノンフィクションの説得力が欠けるであろう。

また、逆も然りだ。


こうした様々な要因が何度と無くさざなみのように僕の心のなかでおしてはひいてを繰り返し、今何をすべきなのかがずっと分からないまま、日々文章を紡いでいる。


しかし、きっとこれにもいつか答がでるのだとは思っている。

漠然としていては、決して答が出ないこともよく知っている。

答を知っているからこそ、そのプロセスをはじめて見出すことが出来るのは、今まで生きてきて経験済みだからだ。


嘘でも自信を持って「こうなれる」と言えることの強みは、行き着く先が見えているから、遠回りでも手法がたとえ分からなくても行き着くことが出来る可能性が答を知らない人間よりも明らかに高いということだ。


恋愛におきかえるとすごくよくわかるのだが、ただ漠然と女を抱きたいと思っていても恋愛はできないかもしれないが抱くことは出来る。

好きな女と付き合いたいと思えば、抱くこともキスをすることももしかしたら出来ないかもしれないが、付き合うことは出来る可能性はある。


しかし、最近いわゆる非リアと呼ばれる人たちに問題なのは、その両方の答を知らないことだ。

リア充とは、常に「抱きたい」「キスしたい」「一緒にいたい」といった答を持っていて、なんなら「彼女が欲しい」といった漠然としたものでも最低限は持っている。

しかし、非リアと呼ばれる属性は「リア充爆発しろ」「路チューしているのはムカつく」「彼女なんてできません」といった、他方を攻撃することに重きを置いていて、自分がどうなりたいかという「リアル」の答を知らないことが、非リアの原因なのではないだろうか。


話が大きく脱線したが、今の僕のボンヤリとした願望は、とどのつまり答のない未来へ何かしらの期待を抱く、どうしようもない現状だ。

毎日が焦燥感にかられているのは、こうした行き着く先の答が見つからない自分が原因だと思う。


もしかしたら、明日への希望が見いだせない、将来に夢を描けない若者たちはすべてこうした答がないまま、モラトリアムを終え、そして薄給を握りしめ日々過ごしているからなのかもしれないと思い始めた。


誰かに希望や夢を与えることが、もし僕に出来るとするなら、まずは自分自身の答を先に見つけて、そしてそのための数式を描くことからはじめるべきだろう。


もしかしたらまだ僕はモノカキとして一歩も踏み出せていないのかもしれない。まずは靴紐を結びたい。

2015/04/14

有名な方たちは人間が出来ていて素晴らしい限りだ。

こちらのブログに書くのは1年以上ぶりでしょうか。

過去に書いた記事も少ないのですが、なんだか昔書いたものをたまに眺めると面白いものですね。

この頃と何にも変わらずにへたっぴな文章を垂れ流し続けていて、方方から怒られる日々です。


さて、どこに書いていいか分からずに、そういえばここは時々僕の思うことを書く場所として立ち上げていたんだと思いだしたので、ふと、ここに書いてみる。


東京に来て6年がすぎ、徐々にこんな僕でも友人・知人が少しずつ増えてきた。

社会のゴミクズとして、自分が少しでも何かの役に立てるならと、飛び出してきた故郷。

一度死のうと思った4年前。

あの頃、もうどうせ死ぬのなら、まだ何かやれることがあるんじゃないかと、人間簡単に死なないと言ってたHIDEの言葉をなんとなく胸に刻んで今がある。


気づけば、相変わらずのクズっぷりだけど、それでも笑って許してくれる周りの人に支えられて、なんとか生きている。

誰かのためになるのならと生きてきた結果、結局誰かに支えられているという何ともお恥ずかしい顛末を繰り返すばかりなのですが、こんな僕でもたまに勉強熱心な時がある。


昔から、目立つのは嫌いなくせに、人前に出ることが多かった僕は、日常から一瞬解き放たれる『イベント』が大好きだ。

大きな音楽フェスや、講演・セミナー、そして誕生日会と、カタチはそれぞれだが、何かしらのイベントを催すのが好きだ。


自分が思い描くイベントストーリーが果たして、どれだけ人を楽しませることが出来るのかというのは、結局来るお客さんに委ねられるので、運営側が出来ることは70%ぐらいが限界で、実際は50%にも満たないくらいで、残りは結局来た人がどう楽しんでくれるか次第でイベントの成功は大きく左右すると思っている。


だからこそ、色んなイベントに行ける限りは積極的に行こうと思い、時折気づけば会場に自分の足が向いていることは、むしろ必然とも言えることだろう。


可能な限り俯瞰で体感するために、どんなイベントに行っても、知り合いに遭わない方が僕的には助かることが多い。

例えば、ちょっとしたトークイベントなんかにいって、知り合いがいるとついつい話してしまったりして、思わずイベント的にロスをすることは決して珍しくはない。

ただ、それもある種イベントに参加する人側の体験としては、決して間違っているものではないので、そこはひとつのモデルケースとしてよいと思っている。


ところが、イベント主催者やそこに参加者として来ているが、とても有名人な方がたまたま僕のことを知っている時は、その気配が変わる。


有名な方たちというものは、とにかく人間としてちゃんとしている人が多く、そのため僕のような無名な人間の顔ですら覚えてくれていたりする。

向こうが気づけば、必ず声をかけてくれるし、その場で話し込むこともある。

個人的には、とても嬉しいし、やっぱりこういう人が成功するんだよなと、自分の不甲斐なさを毎度喉の奥で味わいながら、キラキラとした有名人の人の笑顔に吸い込まれていく。


しかし、そうしていると、いつしか、そうした有名人の周りには人が集まってくる。

これが、とても困ったことで、僕みたいな無名のどうしようもない社会のクズみたいな人間の周りにも集まってくるのだ。

もちろん、お分かりの通り、僕の周りというよりは、その有名な方の周りに集まっているだけにすぎないが、そうしていると、徐々に僕の方にもそうした方たちがキラキラした眼差しで話しかけてくる。


これが、困った。


そのような鮮度の高い、まさにいけすから取り出したばかりのような魚の眼をされても、僕のような菜種油をしぼりとった後のカスのような人間からは、おそらく期待しているような何か面白い話も出てこないし、おそらく何にも役に立てるようなことはないので、申し訳ない気持ちで満載になる。


いや、もちろん、誰かの役に立ちたいと思っているとはいえ、そういう有名人の方の横にして向けられるキラキラには決して応えられそうもない。

さっき、その人が咥えたストローぐらいだったら用意できるかもしれないが、おそらくそんなクズ発言をしたら、なおさら失望し、その人はきっと侮蔑の眼差しで僕にこういうだろ「…」いや、言うんじゃないのか。無言で去るんだ。


ほら、クズとして出会っていれば、きっとかわいそうに思ってチョコボールのひとつでもくれるかもしれないし、なんだったら銀のエンジェルぐらい恵んでもらえるかもしれない。

けれど、この場合はむしろ「たりない残り1つの銀のエンジェルください」と言われているようなものだし、なんだったら最初から金のエンジェルを求めてきていることだってある。


おわかりだろうか。



わかるわけがない。

言ってることが無茶苦茶だからだ。


結局何が言いたいかというと、有名な方たちというのは、人間が出てきていて素晴らしいということだけだ。僕とは大違いだ。