とりとめのない、僕のだらだらとした日記を書くにはここが向いている。
おそらく一番、誰に何を言われても構わない場所なんだろう。
モノカキで生きていきたいと宣言してどれくらい経ったのだろう。おそらく4,5年ほどだと思う。
いつでもそうだけど、本当になりたいと思うものには、様々な周りの支えがあってこそとはいえ、なれるものだ。
総理大臣のように日本で1人しかなれないものや、30を越えて医者になりたいというような、そもそも実現が難しいものを除けば、ほとんどのものが自分の意思と、それを支えてくれる周りを作ることで可能なんだと思う。
さて、そんな話は置いておくとして、今僕はようやくモノカキとして一歩進み始めたわけだが、今果たして自分がどんなモノカキになるべきなのか、日々思い悩んでいる。
実際にところ、なるようにしかならないし、なんだかんだやっていれば形成されていくものだ。
しかし、プロの世界というのは厳しいもので、モノカキとして一歩歩もうとしはじめたばかりのころに、よく諸先輩方や編集者の人から「何が得意なんですか?」と言った言葉を向けられた。
例えば「私は料理人です」という人がいた場合、僕も同じく「何系の料理人なんですか?」と聴くと思う。
おそらくその方が「料理全般です!」と答えれば、この人はまだプロじゃないなと思ってしまうだろう。
今の僕は全く同じことを言っているに違いない。
しかし、そんな中でも自分なりには徐々に進みたいと思う道や、人生をかけて書きたいと思うものがボンヤリとだが浮かんできている。
しかし、人間とは欲張りなものだ。ことさら僕に関しては欲張りが裸で歩いているような生き方をしてきた通り、1つに絞りたいとは中々思えない。
実際問題、プロでやっていくなら、色々やりたいと思ったところでまずは1つ何か得意分野を作ることで、その後の欲張りにも対応できる。
しかし、いわゆる器用貧乏なのだろう。これだ!というものがむしろなく、それなりにどれもそこそこ出来るのだと自分で勘違いしているところがある。
ここ最近悩んでいる中で、さらに自分を大きく悩ませている原因が、自分がやりたいと思う道が、ノンフィクションとフィクションの両極端であるということだ。
最近自分が行き着く先がもしかしたら、今となっては死語となりつつあるルポライターなのではないかと思うことがある。
決して順風満帆ではなく生きてきた中で、上場企業で働いていたこともあれば、裏社会に隣接するところにいたこともある。
その両者の世界にいたからこそ、見えてきた色々なものが僕の中には蓄積されている。
そうした経験から、つねに僕の中では色々な課題が浮かび、それを文章として社会へ届けたいと考えていることは多くある。
しかし、そうしたルポライターの道とは別に、幼少期から書いていた小説や詩などの世界にも大きなあこがれと、そして衝動がある。
現実を切り取ることで、伝えるものと、
非現実を描くことで、引き起こされるもの、
その両方が僕にとっては、背中合わせなようで同じなのだ。
しかし、ノンフィクションを書く人間が、フィクションを描くようでは、そのノンフィクションの説得力が欠けるであろう。
また、逆も然りだ。
こうした様々な要因が何度と無くさざなみのように僕の心のなかでおしてはひいてを繰り返し、今何をすべきなのかがずっと分からないまま、日々文章を紡いでいる。
しかし、きっとこれにもいつか答がでるのだとは思っている。
漠然としていては、決して答が出ないこともよく知っている。
答を知っているからこそ、そのプロセスをはじめて見出すことが出来るのは、今まで生きてきて経験済みだからだ。
嘘でも自信を持って「こうなれる」と言えることの強みは、行き着く先が見えているから、遠回りでも手法がたとえ分からなくても行き着くことが出来る可能性が答を知らない人間よりも明らかに高いということだ。
恋愛におきかえるとすごくよくわかるのだが、ただ漠然と女を抱きたいと思っていても恋愛はできないかもしれないが抱くことは出来る。
好きな女と付き合いたいと思えば、抱くこともキスをすることももしかしたら出来ないかもしれないが、付き合うことは出来る可能性はある。
しかし、最近いわゆる非リアと呼ばれる人たちに問題なのは、その両方の答を知らないことだ。
リア充とは、常に「抱きたい」「キスしたい」「一緒にいたい」といった答を持っていて、なんなら「彼女が欲しい」といった漠然としたものでも最低限は持っている。
しかし、非リアと呼ばれる属性は「リア充爆発しろ」「路チューしているのはムカつく」「彼女なんてできません」といった、他方を攻撃することに重きを置いていて、自分がどうなりたいかという「リアル」の答を知らないことが、非リアの原因なのではないだろうか。
話が大きく脱線したが、今の僕のボンヤリとした願望は、とどのつまり答のない未来へ何かしらの期待を抱く、どうしようもない現状だ。
毎日が焦燥感にかられているのは、こうした行き着く先の答が見つからない自分が原因だと思う。
もしかしたら、明日への希望が見いだせない、将来に夢を描けない若者たちはすべてこうした答がないまま、モラトリアムを終え、そして薄給を握りしめ日々過ごしているからなのかもしれないと思い始めた。
誰かに希望や夢を与えることが、もし僕に出来るとするなら、まずは自分自身の答を先に見つけて、そしてそのための数式を描くことからはじめるべきだろう。
もしかしたらまだ僕はモノカキとして一歩も踏み出せていないのかもしれない。まずは靴紐を結びたい。
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